プロローグ
ラティシア大陸の北の大国レアフィルドは、もうじき儚くも美しい、喜びの春が訪れる。
長く厳しかった冬の女王もようやく眠りについたこの頃、王立大学では毎年恒例となっている、卒業を控えた学生達による論文発表会が開かれていた。
「つまり、著『白い構造』でカルロス・ディーンが述べているように、人間は平等であるという大前提のもとで教育を受け、職に就く権利を有していると考えます。なおかつ、それを踏まえた上で王侯貴族だけではなく職を持つすべての国民に国政に参加する権利を与え、話し合い……」
広大な大学内のひときわ目立つこの白い石作りの円形の建物は、およそ二百年前に建てられたという大講堂だ。中に入ると劇場のように下へ下へと段々状に席が並び、その一番下の壇上には、紺の衣服に身を包んだ一人の少女。栗色の髪が薄暗い講堂内でもよく映え、細い声はそれでも天井の隅々にまで心地好く響き渡る。だから最上階のこの特別席からでも、彼女の姿を充分に確認できた。
「いかがですか?」
背後からの聞きなれた低い男の声。訪ねられて、少年は豪勢なビロード張りの背もたれへと、ゆっくりと身を預けた。そうして少年は初めて、自分が身を乗り出すほど、あの少女の淡々とした言葉に聞き入っていたことに気づいた。まだ幼い、けれど端正に整ったその口元が、薄く緩む。
「シェアラ・ウィーク、か。……悪くない」
背後に佇む男は、少年の言葉に無言で頭を下げた。
シェアラ・ウィークは王立大学を史上最年少で入学し、そしてこの春、首席という名誉と共に今日まさにこの瞬間、卒業を迎えようとしている。
「おめでとう!シェアラ、すばらしいスピーチだったよ!」
「ありがとう!」
論文発表会からちょうど一ヵ月後に当たるこの日、大講堂にて先刻、厳粛に行われた式も、卒業生達にとっては嬉しい祭の一つだろう。講堂の外ではそろいの紺のローブに身を包んだ学生達が、晴れ晴れと澄んだ空に仲間同士、胴上げをしたり、抱き合って涙を流し喜びを分かち合い、それぞれが自らの新たなる門出を大いに祝っていた。
北の大国レアフィルドその王都に開校以来、二百五十年の歴史を持つこの王立大学は、王族はもちろん国内外より集まった未来を担う王侯貴族達の学び舎として、毎年多くの優秀なる人材を輩出していることで有名だ。それゆえに名門名家出身の子息が多く集まる中、シェアラは女の身でしかも王都郊外の小さな田舎で教師の娘として育ちながら、十二歳の若さで入学試験をほとんど満点でパスし、入学後もその才を惜しむことなく発揮させ、ついには一年飛び級をして、今年十五歳で卒業を果たした、大学きっての優秀かつ有望な学生であったのだ。
「ウィーク」
式を終え、歓喜に任せ大騒ぎしている学生達の声が響く中、知った声で名を呼ばれ、シェアラは笑顔で振り向いた。
「学科長先生!」
年上の仲間達が次々に祝辞を述べ再会を約束して別れを告げる。その合間を縫って、シェアラは紳士的な笑みを浮かべる初老のエリク学科長を見上げた。
「ごめんなさい、先生!みんなもう大騒ぎなんです。ローブなんてボロボロ…」
「卒業おめでとう、シェアラ・ウィーク」
周囲の馬鹿騒ぎとはまるでそこだけ時間の流れが違うかのような穏やかな口調。シェアラはゆっくりと落ち着きを取り戻し、深く腰を折った。
「ありがとうございます。エリク先生」
「さっそくだが君に、重要な用件があるのでね、時間をもらってもいいかな?」
相手を思いやりながら、それでもはっきりとした強い声。シェアラは考える暇もなく、頷いた。
エリクの背中に着いて歩くうちに、大学内でも奥まった場所に建つ旧校舎へとやってきた。卒業式を終えた学生達の声もほとんど耳に届かない静かな屋内。長い廊下と階段をいくつも進んで、ようやくたどり着いたその場所は、なんと大学学長その人の部屋であった。
エリクが扉を叩くと、静かに開かれ、シェアラは息を呑んで促されるままに室内へと足を進めた。
「やあ、シェアラ・ウィーク。卒業おめでとう」
椅子に腰を下ろしたままの学長は、穏やかな笑顔でゆったりと祝いの言葉を述べた。
シェアラは一瞬の間を置いて、慌てて頭を下げる。
「あ、ありがとうございます!」
「君のような優秀な人材を送り出せることに、私も教師陣も大変嬉しく誇りに思うよ」
エリク学科長よりも老いた外見、けれど学長はにこにこと穏やかな微笑を絶やすことのない、聖人のような人だ。シェアラは自然と笑みを浮かべる。
「特に今後の君の活躍には大きな期待をしている」
「ご期待に添えるように頑張ります」
「ところで、君は国政に興味があるそうだね?」
「はい。帝王学専攻でしたから」
シェアラの迷いのない返事に、学長は満足そうにゆっくりと頷いた。そうして立ち上がると、その手にある一枚の書状を彼女の方へと向けた。
「先日正式に届いた任命書だよ。君を国王陛下の補佐官に、と」
「……………………は……………???」
シェアラは我が耳を疑った。疑うことしかできなかった。
私が、この私が国王の補佐官????
状況が飲み込めず呆然と佇むシェアラをよそに、穏やかな調子を崩すことなく、学長は王家から届いたその書状の文面を淡々と読み上げた。
私が…………。私が、補佐官??ほさかん、ほさかん、ほさかん……………………。
シェアラがようやく我を取り戻すまで、たっぷり一刻もの時を有したことは、言うまでもなかった。